クスコはは1400年代からピサロによってインカの歴史が閉じられる1533年まで約1世紀、インカ帝国の首都として隆盛を極めた。当時町の中央には、石組みの建物のほとんどの面が金箔で覆われた、まばゆいばかりに輝く「太陽の神殿」があった。神殿の中にも実物大のリャマの金像など莫大な量の金があり、侵攻してきたスペイン人を驚愕させたという。
インカはまさに金の王国であった。スペイン人がインカ皇帝アタワルパを捕らえ身代金を要求したため、インカは国中から金の宝物を集め、「部屋いっぱいの」金をスペイン人に支払った。それらは全て溶かされて延べ棒にされヨーロッパに運ばれたが、その量の多さは当時ヨーロッパで金の暴落が起きたほど膨大であった。
身代金を受け取ったスペイン人は直ちにアタワルパを処刑し、その後クスコで略奪と破壊の限りを尽くした。彼らは財宝の略奪以外に「異教徒のキリスト教への改宗」という目的も持っていたため、インカの太陽神信仰に関係する人、物は徹底的に殺し、破壊し、代わりに教会を建て、神父を派遣してキリスト教布教を進めたのである。
「太陽の神殿」も例外ではなく、土台以外は破壊され、その上にサントドミンゴ教会が建設された。神殿周辺の建物も土台以外は破壊され、スペイン風の住居が上に造られた。しかし皮肉なことに、その後の大地震ではスペイン人の建てた建物はもろく崩れたがインカの石組みで作られた土台はしっかり残っていた。地震の巣であるチリ沖が近くにあるインカは、精巧な石組みを作ることでそれを克服していたのである。さらに驚くべきことに、太陽の神殿の地盤は遠い海岸から運ばれた砂が敷き詰められていて、大地が揺れても砂が揺れを吸収し神殿本体が揺れないような構造になっているという。
日本もインカも太平洋プレートが目の前で沈み込んでいる地震の地雷地帯にある国であり、両者とも長年その対策には頭を悩ませてきた。結果、日本では5重の塔に代表される柔構造による免震、インカはクスコの石組みに代表されるような剛構造による耐震という対照的な結論になっている点は大変面白い。
小高い丘から見たクスコの風景。クスコはアンデスの山々に囲まれた盆地の都市である。
左:精密に並べられた石組み 右:継ぎ目の拡大図
インカではむしろこの写真のようにバラバラの大きさの石が精巧に組まれている石組みを多く見かける。この石組みが、上に見えるスペイン風の建物が全壊するような地震にも耐えたというのは驚きである。この壁の厚さは1メートルちかくもあるらしい。
クスコ郊外の丘に作られた城塞「サクサイワマン」の遺跡。ここではクスコで見られるものよりさらに巨大な石が多く見られる。エジプトと違って車輪の技術を持たなかったインカがどのようにしてこのような巨石を運び、建物をつくったのかは未だに解明されていない。
クスコ近郊の要塞「オリャンタイタイボ」の遺跡。この遺跡の上部には6個の巨石をぴったりと並べた建造物が残っており、「太陽の神殿の作りかけ」や「月の神殿」など諸説が出ているが詳しい目的は分かっていない。
この遺跡ある村ではインカ時代に作られた用水路などが今なお使われている。訪れたときも、アンデスの万年雪による冷たく豊富な量の水が用水路を流れていた。